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2018年4月

2018年4月28日 (土)

2018年4月22日JAXA&相模原市立博物館見学

今年度最初の外出活動で、濱口さんから提案のあったJAXAにくわえて、相模原市立博物館にでかけました。

午前中に近況報告したあと、早お昼を食べて、1時前に町田駅を出発。4月としては異例の暑さのなか、淵野辺駅から徒歩で20分ほど歩いて到着しました。

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2018年4月18日学校卒業後における障害者の学びの推進に関する有識者会議(第2回)参加

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【堀】  私たちは「とびたつ会」です。まず、最初に歌を歌います。「私ぬきにきめないで」を聞いてください。
 ワン・ツー・スリー・フォー。

(「私ぬきにきめないで」歌唱)
♪わたしのこと わたしぬきに きめないでほしい
 わたしの声 わたしのおもい 伝えたい あなたに
1はたらくこと 大変でも なかまたち がんばってる
 まかせられた 仕事がある 自信もって とりくんでる
 みとめられたい はたらきたい わたしにあった 仕事がしたい
 つらいことも あるけれど わたしにとって 大切なこと
 わたしのこと わたしぬきに きめないで ほしい
 わたしの声 わたしのおもい 伝えたい あなたに
2子どものころ 話せなくて 友だちから からかわれた
 練習して いまはちゃんと 話せるのに つづく差別
 みとめられたい 話がしたい きもちかよわす 仲間がほしい
 話すことは たいへんでも 伝えたい わたしのきもち
 わたしのこと わたしぬきに きめないで ほしい
 わたしの声 わたしのおもい つたえたい あなたに

【堀】  ぼくは、堀正明です。鶴川中学校を卒業してから、佐藤牧場で働いてきました。
 今は、結婚して、グループホームに住んでいます。ユカリさんと一緒に生活しています。
 今は、52歳です。仕事は、東京園芸で仕事をしています。
 20歳から青年学級に入りました。青年学級に参加しています。ちょうど青年学級のとき、青葉製麺で働いていましたけれども、ちょっといじめられた。ちょうどそのとき、ぼくはまだ青年学級の全体の学級リーダーをやっていて、青葉製麺で働いているとき、鶴川に会社があったけれども、今は倒産しちゃった。そのとき、パートさんの主任にいじめられて、帰りも小田急線で自殺しようかと思って、かなり苦しかった。
 ちょうどその日が土曜日で、その次の日曜日が公民館学級の成果発表会があるということが頭に入っていたから、自殺はしなかったということ。あと、やはりぼくがいないと成果発表会がどうなるか不安ということもあったし、みんな友達がいるということで、ここまで来たということですね。
 以上です。
【藤原】  藤原幸子です。町田養護学校高等部を卒業して、福祉作業所なないろで下請の仕事をしています。31年になります。
 2003年に滋賀で行われた「ピープル・ファースト」に参加して、みんなで本人活動の会を創ろうと話し合いました。そのとき、青年学級は人がいっぱいで、私たちが卒業して、新しい若い人に入ってもらおうと思いました。それで、「とびたつ会」をつくりました。
【稲村】  稲村宏美です。世田谷にある都立園芸高等学校を卒業しました。
 「私はあなたを障害者だと思っていないから」。仕事をする中で、この言葉を言われるたび、「あなたと私は対等だ」というのとは違うように感じる言い方に胸が苦しくなる。
 時々起こるてんかん発作、めったに起こることがないので、そのことを知らない人が多く、その後の周囲の反応が怖くて、びくびくしている自分がいる。
 障害者雇用という形で入ってはいる私ですが、決して特別扱いをしてほしいわけではありません。努力し、できることを増やすこと。目の前のことを一生懸命やることも大切にしていますが、しかし、100%ほかの人と同じように仕事をすることは難しいのも事実。認めることは認めてもらわなければ、お互いに煮詰まってしまう気がします。
 だけど、思っているだけでは分かってはもらえない。職場の人たちに理解してもらえるように、分かり合い、よい仕事ができるようにしっかりと自分という人、自分の気持ちを伝えていくことが大切なのではと考えるようになりました。
 障害を持った人という見方を切り離して、いろいろな人がいるけれども、みんながよい関係性を作り、ともに生きていける世の中につなげていきたい。
 言葉にすることで、「若そよ」のステージを通して、そういったことを伝えられたらと考えています。




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2018年4月27日 (金)

2018年3月25日第6回生涯学習センターまつり出演

恒例の生涯学習センターまつりが工事の影響で、今年は3月25日に開催されました。

その3日目の11時から、青年学級の仲間と共にステージに立ちました。

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2018年4月26日 (木)

2018年2月 うたづくり「あっぱれな人生」

多磨全生園・ハンセン病資料館の見学のあと、歌づくりにとりくみました。

あっぱれな人生

映画「あん」によせて

生まれてからずーっと イスにすわりつづけて

花や鳥やひかりを 地球や宇宙や人生を

真剣にうけとめ つづけた人生は

あっぱれな人生

この世の中をみるために わたしは生まれてきた

ひざしや風に耳をすまし 思いをめぐらす

この世にあるものすべて 言葉をもってる

閉じ込められた人生でも 垣根をこえるこころで

月や樹や風と 話せる人がいるなら

すばらしい人生

人として生きるために 闘いつづけてきた

生きる意味をみつめて 希望をうたう

いろんな人にであい たくさんの話をきいて

いろんなものをみて 正しい知識をつけて

どんな人にあっても やさしく話ができれば

たのしい人生

あっぱれな人生

歌詞の基になったのは、映画「あん」の原作者のドリアン助川さんのインタビュー記事と、映画の中の「徳江さん」のことば、そして稲村さんの作文です。

以下に掲載します。

稲村さんの作文

行きのタクシーの運転手さんが「昔乗せたお客さんに『鰻食べに行くから付き合ってよ』って言われて時々一緒にご飯食べたよ 最近連絡ないけどどうしたかなぁ」と言う話を聞かせてくれました。

帰りのタクシーの運転手さんに「自然が多くて良い所ですね」と言ったら、「昔は病気がうつると思って引っ越してくる人がいなかったからね」と話してくれました。

資料館で見た物とタクシーの運転手さんの話 

帰りの運転手さんの話からは病気になってしまった人達がどんな思いで暮らしてきたのかという事を考えさせられ、行きの運転手さんの話からは長い長い時間をかけて周囲の意識が変わってきたのだと言う事を感じる事が出来ました。

行きの運転手さんの話は「ご飯食べに行くから付き合ってよ」と声をかけたお客さんに、外に出るという出来て当たり前と思っていた事が出来てない時があったこと、運転手さんを誘った事に少し切なさも感じましたが、一緒にご飯を食べに行った運転手さんをステキ人だなと思いましたし『今ごろはどうしてるかな~』の言葉に、ただのお客さんと運転手さんをこえて昔の友達を懐かしむような言葉と優しい瞳に聞いているわたしの気持ちも暖かくなりました。

今日いろんな人の話を聞いて見て、いろんな物を見てみて何が人間らしく幸せなのかという事の正解は難しいけれど、どんな人に対してもきちんとした理解と知識をつけ接する事が大切なのだなと思いました

ドリアン助川さんのインタビュー記事(映画「あん」HPから)

1990年代に「正義のラジオ ジャンベルジャン!」というラジオの深夜番組をやっていて、10代の中高生と生で話していました。よく俺が投げかけたのが、本当に青臭いんですけど「どう生きたら納得できるのか」ということ。たくさんの子が割と紋切り型に「社会の役に立ちたい」「人の役に立ちたい」「そうでないと生きている意味がない」と言うけど、俺は内心、何か隙がいっぱいある言葉のように思えたんですよね。

当時バンド(「叫ぶ詩人の会」)をやっていて、レコード会社の担当プロデューサーの子供が2歳で亡くなったんです。心臓に大きな病があって、病院から一歩も出られず、僕が誕生祝いに贈った小さな靴を1回も履くことなく、一緒に棺に入れられた。

その子の人生にどんな意味があるんだろうと思っていた頃、1996年に「らい予防法」が廃止されて、ハンセン病の患者たちの人生がメディアで浮き彫りになったんです。子供の時に発病して療養所から出られず、70歳、80歳になった人たちにも絶対、生まれてきた意味があるはずだし、「人の役に立たないと」という言葉の暴力性を感じたんですよね。ハンセン病の療養所を背景に、本当の命の意味を書こうと誓った。でも北条民雄さんなど、患者の手記を読むと、壮絶すぎて、心がやけどしたようになる。患者でもない人間が、無理かな、おこがましいかな、と、手が出ない状況が続いていました。

──何が転機になったんですか?

バンド解散後、ニューヨークに渡って別のバンドをやってたけど、20029月に日本に帰って来た。仕事はない。本を年4冊出しても、初版で終わっちゃうと年収200万円にもならないんだよね。子供の学費を払えるかどうか、ぎりぎりの生活でした。多摩川の土手にあるアパートで家族3人暮らしていて、あるとき気づいた。回りは高級住宅街だけど、俺には何もない。もう「所有する人生」なんて今後ないだろうという自由さ。「あっ、この多摩川は俺のものだ」。なんだ、世界ってもともと与えられてるじゃん。

地球外生命は見つかっていない、俺たちは宇宙でかなり孤立した存在らしい。ではなぜ生命が存在するのか。宇宙は認識する主体がいなければ消滅してしまうからという「人間理論」です。多摩川の土手を自転車で行ったり来たりしているとき、実感としてそれがわかった。

生まれてから死ぬまで椅子に座り続けて、花や光や鳥を、地球や宇宙や人生を真剣に受け止め続けた人生があったら、それは無意味ですか? 宇宙的にはあっぱれな人生じゃないか。療養所に閉じ込められてしまった人生でも、垣根を越える心を持って、月や木と話をする人がいたら、すばらしい人生じゃないか。「あん」のラストで、療養所内の木々が「よく頑張ったな」と徳江さんに語りかける、そのシーンから空想が始まったんです。

そして20092月に埼玉県所沢市で呼ばれたライブに、お年を召された男女3人が最前列にいた。終わって聞いたら、ハンセン病療養所の「多磨全生園から来ました」と言う。そこで初めて、本当の元患者さんたちと出会ったんです。「療養所に遊びにいらっしゃい」と誘われて行ってみたら、びびっちゃいました。手に穴が空いている人も、鼻がない人もいる。そこで森本美代治さんから、ハンセン病の歴史などを始め、いろいろ教えていただきました。

──どんなことを?

森本さんは中学生のときに発病して、療養所を転々とするんですが、岡山に日本で唯一あったハンセン病患者の子供の高校に入学するとき、客車でなく貨車に載せられて、広島駅で消毒薬を頭からかけられる。その後、東京の全生園に移って、12人の雑居部屋でしつけなど厳しく教えられた。その厳しく教えた人が製菓部のおじいちゃんだったんです。療養所は、火事になっても消防が来てくれない「ミニ国家」だから、手に職ある人が「国家」を支えていかなくちゃいけない。たぶん菓子職人だった方を中心に、患者さんの誕生日や盆と正月に甘いものをつくる「製菓部」という集まりをつくっていた。俺はその頃、パティシエの小説を書こうと製菓学校に通っていて、一般教養であんこも作っていたから、初めて「書ける」って思った。

森本さんがどうしても勉強したくて、消灯後に毛布をかぶって1時間だけ勉強するのを許されたこと、療養所を脱走して慶応義塾大学に入るんだけど卒業後に再発して、自ら療養所に戻って、その後の20数年は自殺することしか考えていなかったこと。そういう話をしてもらって、発見が相次いだわけ。ハンセン病の知識がほとんどない俺みたいな奴が、患者さんと出会うことで差別の歴史を知り、最終的にはハンセン病も関係なく、人間って、生きている意味って何なんだと問いかけられればいい、と思った。森本さんも「その方が広がります。患者のことは患者が書けばいいから」とおっしゃってくれました。

徳江さんの少女時代は「人間回復の瞬間」という、星塚敬愛園(鹿児島県鹿屋市)の元患者、上野正子さんの手記からヒントを得ました。上野さんはお父さんに連れられて療養所に来て、お父さんが帰ってしまうんです。何度めげても立ち上がる少女のイメージができました。

映画「あん」から「徳江さん」のことば

あんを炊いているときの私はいつも、あずきのことばを耳をすましていました。それは小豆がみてきた雨の日や風の日を想像することです。どんな風にふかれて、あずきがここまでやってきたのか、旅の話を聞いてあげること。そう聞くんです。この世にあるものは全てことばを持っていると私は信じています。

日ざしや風に対してさえ耳をすますことができるのではないかと思うのです。

そのせいでしょうか。夕べはヒイラギの垣根を越えてやってくる風が「店長さんに声をかけたほうがいい」と言ってるように感じられたのです。店長さん、こちらに非はないつもりで生きていていても世間の無理解におしつぶされてしまうこともあります。知恵を働かさなければいけないこともあります。そうしたことも伝えるべきでした。店長さんは店長さんらしいアイデアでご自分のどら焼きを完成させる人だと思います。どうぞご自分の道を歩んでください。

この世を見るために聞くために生まれてきた。だとすれば、何かにならなくても、私たちには生きる意味があるんです。

 

 

 

 

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2018年4月25日 (水)

2018年1月14日多磨全生園・ハンセン病資料館見学

多磨全生園・ハンセン病資料館を見学しました。

昼食は、全生園内の「お食事処なごみ」。映画「あん」のポスターやグッズがありました。塩どら焼きを買い求める人も。食事の後、ハンセン病資料館に移動し見学。途中、平澤保治さんの証言ビデオを観ました。

人間回復の闘争は激しさと、生きる意味を探し求めて取り組んだ芸術活動、芸術作品のすごさ、すばらしさに圧倒されました。

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2017年12月24日望年会

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2017年12月10日学習会「ハンセン病について」稲村七郎さん

1月14日の外出を、多磨全生園、ハンセン病資料館に決めたことをきっかけに、11月26日には、映画「あん」をみました。

そして、12月10日には元新聞記者で、ハンセン病患者のらい予防法違憲国家賠償請求訴訟を見続けた稲村七郎さんからお話をうかがいました。(以下概略)

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ハンセン病について

稲村七郎さんの話 要旨

今年8月に新聞社を退職した。患者さんたちの戦いが私の人生にどのような影響を与えたかを話してみたい。

ハンセン病の人がひどい差別に置かれていることを知ったのは1983年のことでした。13の療養所の患者自治会の協議会 全患協ニュースをみて驚いた。長島に橋がかかることになった。これを「人間回復の橋」と呼んでいた。周囲が海にかこまれているので、救急車も呼べない。たかだか22メートルしか離れていないところに「橋を架けてもらいたい」と要求をした。83年に厚生大臣が橋を架ける約束をした。そのときはじめてハンセン病に関する記事を書いた。長島というところになぜ橋を架けなかったか。90年間にわたって、社会から隔離された。強制的に隔離させられた。逃げて帰りたい人もいた。逃げだしたくても海があって逃げられない。 

1907年「らい予防に関する件」制定から1996年まで

らい予防法の隔離政策がまちがっていたという証として橋をつくってもらいたいう要求した。「人間回復の橋」

ハンセン病は、怖くない病気。らい菌が引き起こす感染症。感染する力も弱い。実験用に培養してもなかなか成功しない菌。現在1年に0人から3人が発症するが投薬治療で完全に治る病気。

1931年らい予防法。らい患者を見つけると強制的に療養所に隔離する。家は消毒する。療養所の所長は、警察署長。逆らう人は強引に捕まえて食事を減らすなどの処罰が行われた。療養する施設ではなくて、刑罰を与える施設であった。

戦前は戦争を進めていく社会。役に立たないものとして、人間扱いしなかった。座敷豚と呼んでいたところもあった。

療養に専念するということは全くなかった。軽症の人は重症の人の面倒を見させるなど、強制労働を強いられた。ハンセン病は皮膚感覚がなくなるとか、指がなくなっても、治療はされず、患者同士で面倒をみていた。病状を悪化させるだけ。

憲法13条は人権こそ一番大事とされたが、ハンセン病患者には適応されなかった。1953年らい予防法(新法)。強制隔離継続。

優生保護法による妊娠中絶が行われた。戦後の法律でそれがきまった。憲法規定もハンセン病だけは例外規定で、人権が守られなかった。戦後は、国民主権となり、180度価値が変わったのに、戦前を引き継いだ。

世界にも例を見ない悪法。

ハンセン病患者がどう生きていたか。熊本・高橋さんの話。「無期懲役の犯罪者のように扱われた」子どものころは、昼間はひっそり家のうらに隠れてくらしていた。しかし、あるとき保健所から手紙が届いて、「らい患者回送列車」に乗せられて、療養所にいく。家族も「あの家にらい患者が出た」というと、村八分にされてしまう。患者が故郷に帰りたくても、家族から「かえって来てはいけない」と言われる。お母さんは長崎で被爆して白血病で死亡するが、その連絡さえもらえなかった。墓参りにも行けない。胆石と腎結石になったが対処できる医者がおらず我慢するしかできない。「ここは警察官が監視していた。空気がないのと同じ」。患者が死に絶えるのを待っていた。

WHOは日本に対して、隔離はやめなさいと勧告していた。患者もらい予防法廃止の運動を展開していた。

1996年らい予防法廃止。患者は、故郷に帰れる、墓参りができると思ったが、社会はそれを許さなかった。国は隔離政策が間違っていたと認めることはなかった。

1988年、損害賠償裁判を菊池清風園の患者が起こした。裁判所で、名前を出して証言する。

国側は、療養所で3000人以上の子どもが中絶させられたり、男性には断種が行われたが、「同意を得て行った」とうそを言った。裁判に出る人が1700人を超えた。療養所でくらす3分の1が訴えた。

2001511日 熊本地裁は、全面勝訴の判決を出した。国の政策が誤っていたことをきっぱりと言いのけた。強制隔離は国の犯罪であった。憲法22条 居住、移転の自由、職業選択の自由。憲法13条に違反する。過去にさかのぼって賠償する。国会議員の責任も指摘した判決であった。

511日全国に沸き立つような衝撃がはしった。国は、強制隔離ではないという立場をとり続け、高等裁判所に控訴しようとした。全国から首相官邸の前に患者が集まり、控訴断念の要求をしたことが忘れられない。世論が沸騰するというのを初めて見た。支援の人たちが国会の周りに続々とやってくる人々。

小泉首相が、8人の人と面会した。切々と首相に訴えた。そして夕方判決を受け入れるといった。

5月の異例の暑さの中で声を上げ続けた。理不尽な控訴を覆すことができた。この時新聞社の担当デスクをしていた。この取材に関われたことが、人生を形づくりにあたって貴重な体験となった。国民が怒って立ち上がればどんなにひどい政治でも変えることができる。

新聞記者として、仕事をするときに、理不尽は許さない、あきらめないということ。これを訴えていけば、社会につながっていくんだということを強烈な印象として受けた。 (文責:松田)

 

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2018年4月24日 (火)

2017年10月28日町田母親大会オープニングアクト

町田母親大会の皆さんのお誘いをうけて、オープニングアクトに出演しました。

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メインの講演は、宮澤勝之さんの歌とお話

「陽気に生きようこの人生をさ」をつくった人です。

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2018年4月23日 (月)

2017年10月14日聖心女子大学グローバル共生研究所オープニングアクト

聖心女子大学グローバル共生研究所 初代所長の大橋正明さんが、わかそよをご覧いただいたことをきっかけに、ご招待いただいたオープニングアクトでした。

同大学のグリークラブの皆さんにもご参加いただき、多くに皆さんに歌をきいていただくことができました。

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2017年10月7日「生活創造空間にしフェスティバル」出演

今回で3回目になる生活創造空間にしでの発表!

今回はフェスティバルにお招きいただき、その中で1時間歌をうたいました。

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2017年9月10日手羽元カレーづくり

いつも利用しているコメット会館がおまつりのために使えず、市民フォーラムの調理室しか空いている部屋がなかったので、調理になりました。その後に控えた「生活創造空間にし」(西横浜)での発表にむけて、新曲「クラップ・クラップ」の歌詞に出てくる手羽元カレーをつくりました。

午後は、発表に向けて練習しました。

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2017年8月27日社会教育研究全国集会分科会参加

神奈川県相模原市の相模女子大学で開催された社会教育研究全国集会(神奈川集会)障害をもつ人の障害にわたる学習保障という分科会に参加しました。

当日は、相模原市のあじさい青年学級、保土ヶ谷区の「おもいっきり会」の報告がありました。

西東京のピッピの皆さんも参加していました。

とびたつ会と青年学級は津久井やまゆり園事件に関する取り組みについて報告しました。

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2017年8月6日池上洋通さん講演会

だれもが「生きていてよかった」と思う社会をつくる

 

人権と平和と憲法と―そして主権者である私たち

 

池上洋通さん

(いけがみひろみち)

(日野市障害者関係団体連絡協議会・多摩住民自治研究所)

「2017_8.pdf」をダウンロード

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2017年7月26日スパッゲティづくり

なぜか夏に取り組む調理実習。

今回はひさしぶりに粉から作るスパゲティ。

おいしくできあがりました。

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